蒼深
──ばっ。
勢いよく広げられた白いシーツは、赤紫の髪と共にはためいた。対称的な空の青さに目を細める。まるで雲のように、シーツはぽっかりと空に象られた。
「…もう一度聞くが、本当に大丈夫なのか」
ぷかぷかと浮ついた気分に水をかけるように、刹那の低い声がする。あれほど説明したのにまだ必要なのか。視線は眼前の海に向けたままの刹那は、今一信用していないのか何度も大丈夫かと問う。項辺りできゅっとシーツの両端を結んだティエリアは(いっそこのまま締めて黙らせてやろうか、と思うも口には出さず)、肩を掠める自らの鬱陶しい髪を一本に纏めながら眉を寄せた。
「僕は美容師免許はもちろん、あらゆるジャンルで資格を所持している。逆に君がそんなにも心配する理由がわからないのだが?」
「どうせペーパーだろう」
「何か言ったか」
「いや」
「…では、切るぞ」
気合いを入れるような深呼吸を皮切りに、次々と霧が吹き、髪を濡らして行った。シ。シ。どこか笑い声にも似たそれは、やはりぷかぷかと、青い空に浮かぶ。
ティエリアが、刹那の髪を切りたい、と言い出したのはなんの変哲もない食事時の事だった。
何でも、首筋に当たる髪先を気にしている刹那が気になるのだという。
この提案には、ロックオンはおろかアレルヤまでもが唖然とし、まるで別の何かを見るような目でティエリアを見た。まさか。まさかティエリアが自ら天敵刹那の為に動くなんて、と。
刹那は僅かに躊躇した後、ロックオンとアレルヤにそれぞれ尋ねるような視線を向け、こくこくとぎこちない表情のまま二人揃って首を振るわれたので、意を決したように「…頼む」と頭を下げたのだ。まさか。まさか刹那が天敵ティエリアに頼み事をするなんて、と、保護者二人は子供達の成長に目を潤ませた。
それがほんの数日前の出来事。
ティエリアと刹那は、地図にないくらい小さな孤島の、開けた砂浜に椅子を一つ置いた。
任務がてらにとはいえやってきた島が、こんなにも青空教室に最適な場所だったとは、と、ティエリアは鋏の感覚を確かめながら思う。
まだ不安要素は消えていないのか、髪先に触れる度にひくりと跳ねる肩がおかしくて堪らない。君は馬鹿か。少なくともロックオンよりは上手く切れる。内心では毒づくものの口には出さないのは、柄にもなく潮風が心地よいと感じるからだろう。しゃき、しゃき、と艶やかに濡れた黒髪が切り落とされていく。太陽の光を受けたそれは、僅かに茶色がかり、砂の中に落ちる。
どちらとも無言だった。
居心地が悪い訳でも、気まずい訳でもなく、ただ、鋏が進む音だけを享受していたいと目を細める。
しゃき、しゃき。
次第に刹那が肩を跳ねさせる事もなくなり、ティエリアの足元には切られた髪が堆積していく。
遂に後は前髪だけとなった時、刹那の声が沈黙を破った。
「…驚いた」
「、」
「髪を切ると言った時」
「…ああ」
冷静に考えれば、確かにそうだろう。
肩や胸元に引っかかっている髪を払ってやりながら、真正面に移動し、腰を屈めて全体のバランスを見る。
自然と、視線がぶつかった。
まるで前掛けのようにシーツを下げた刹那はどこか、幼く見える。彼の赤銅色の双眸に、ぽつりと自分の姿だけが映っているのがわかった時、何故だか妙な高揚感に襲われた。鋏の感覚が遠くなる。訝しげに名前を呼ばれ、ふと我に返った時ティエリアの手は刹那の頬に伸びていた。
「す、まない」
幼少期の待遇からか、刹那は他人に触れられるのを嫌う。それはプトレマイオスの乗組員全員が周知の事だった。いつもなら適当にあしらうのだが、自然と口から滑り落ちたのは謝罪で、微塵も揺れることない刹那の双眸には気まずげに唇を閉ざす情けない自分の顔が映りこんでいる。
手を離そうと身じろいだ時、一瞬だけ刹那が何か言いたそうに口を開いた。しかし、そのまま言葉は発せられずに、睫毛は影を落とし、瞳は伏せられてしまった。
「すまない。軽率だった」
名残惜しいと思ってしまうのは、拒絶されずに刹那に初めて触れる事ができたからだろう。もう一度謝罪し、今度こそはとティエリアは手を離そうとする。
と、意を決したように肘掛けを握りしめた刹那が顔を上げた。
「嫌では、なかった」
ひくり。
鋏を広い上げた指が跳ねる。
「お前に触れられるのは」
「…そうか」
たったそれだけの、会話だというのに。
ティエリアは、自分の中で何かがゆるゆると弛緩していくのを感じた。これを何と呼べばいいのかはわからない。しかし、顔を上げた時、刹那は笑っていた。緩く緩く、無表情に近くはあれども、笑っていたのだ。
「──それは、よかった」
運命共同体と素直に向き合えた日。
空はどこまでも、青かった。
蒼 深
(あの日を境に、くだらない意地など遠く遙かへと投げ捨てた)
日参している携帯サイト
Ms.flange
の蒼木ユキコ様宅の三周年記念フリーのティエ刹!あーいーわーvv大好きだーvv
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